マサコさん、高校演劇・春フェスを振り返る ①大分県立大分豊府高校『むれたがる私たち』

GW前、高校演劇の映像を送ってくださった先生たちに「外出自粛だし、高校演劇三昧の黄金週間を過ごします!」と高らかに宣言していたが、突然の歯痛でそれどころではなかった。痛み止めが効かず悶絶し、顔の左側から左耳、左顎下まで腫れて、眠れず食べられずのGWだった(だから、これから観て書く、という言い訳です。すみません)。

さて、3月下旬に福岡・北九州芸術劇場で行われた「春フェス」。福岡滞在中にツイートした内容と重複する部分も多いと思うが、感想を書きたいと思う。

 

大分県立大分豊府高校『むれたがる私たち』

クラス内で「一人ぼっち」の生徒たちが集まる「階段部」と、その部室が舞台。ある日、階段部を取材したいと新聞部が訪れる。階段部の活動を隠れて見ていたという男子や、なぜか人前ではトロンボーンの音を出せない吹奏楽部女子、部室をいちゃいちゃする場に使おうとする男女、さらに「ぼっち」の先生も訪れて-と、物語が進んでいく。

階段部の生徒は山手線ゲーム(音楽はサカナクションの「新宝島」)をし、楽しそうに語り合う。気の置けない関係なんだなーと思っていると、それぞれがクラスで「ぼっち」な立ち位置だということがわかってくる。保健室登校をしていて単位が足りなくなり転校が決まっている聖子は少し違うが、クラスに存在することはできても居場所がない。一人ひとりの「ぼっち」のつらさや深刻さは語られないけれど、屈託のない笑顔の裏に抱えている「もの・こと」に思いを巡らせてしまう。この作品で「何が原因でぼっちなのか」と理由を突き詰めるのは野暮だろうが、こういう光景って珍しくはないのだろう。階段部での明るさが一層、生徒たちの日々のつらさを感じさせた。大分豊府の生徒たちは、そこを決して重くはなく、むしろ軽やかに演じる。「先祖は忍者」の加賀などキャラ立ちしている役もあるが、とにかく全員「魅せる」。後から、セリフを発していない時にも注目してしまったのはなぜなんだ、と考えたほど魅力的な「役者」たちだった。

個人的に「どうなのかな?」と思ったのは次の2点。

1.「ぼっち」な柳井先生はどうして教師になったのか

2.「ぼっち」はそんなにつらいものなのか(←こっちは大いに主観が入っている)

1について。劇中、柳井先生に「(そんなにぼっちなのに)どうして教師になったのか」と質問する場面があったが、確か答えようとする(続けて質問をする)のを誰かが遮っていたと思う。答えてしまうことが野暮だと思う人もいるだろうが、ぼっちだけどあえて教師を選んだ理由を語って欲しかった。

2について。そもそも「ぼっち」という呼び方自体、ものすごくネガティブに聞こえるが、私は「一人でいるのはダメなの?」という側だ。だから、この作品のタイトルそのものが、本を書いた中原久典先生の「むれたがるのってなんなのかねー」という思いから発したものなら、まさに言い得て妙、だと思うのだけど。

 

2021.3.27 北九州芸術劇場で観劇

text by マサコさん

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。